1895年(明治28年)1月に尖閣諸島が領土編入された翌年、古賀辰四郎(こがたつしろう:福岡県出身の海産物商人)は、国有地であった4島(南小島、北小島、魚釣島、久場島)の無償貸与を受け、開拓に従事しました。
1897年(明治30年)3月、古賀は35名の出稼労働者を尖閣諸島へ派遣して、アホウドリの羽毛採取事業と島の開拓が始まりました。
1900年(明治33年)に撮影された貴重な写真から、既に建物が建てられ、開拓が進んでいる様子が窺い知れます。
1895年(明治28年)1月に尖閣諸島が領土編入された翌年、古賀辰四郎(こがたつしろう:福岡県出身の海産物商人)は、国有地であった4島(南小島、北小島、魚釣島、久場島)の無償貸与を受け、開拓に従事しました。
1897年(明治30年)3月、古賀は35名の出稼労働者を尖閣諸島へ派遣して、アホウドリの羽毛採取事業と島の開拓が始まりました。
1900年(明治33年)に撮影された貴重な写真から、既に建物が建てられ、開拓が進んでいる様子が窺い知れます。
尖閣諸島の開拓は久場島を中心に始まった。当時、すでに家屋が数軒建設されており、島を調査に訪れた研究者(宮島幹之助)は、これを「古賀村」と呼んだ。宮島らを乗せた船への歓迎か、写真に見える「古賀村」には日の丸が掲げられている。
海鳥(セグロアジサシ)の群が一面を覆っている。古賀はこの鳥を帽子飾りの材料として半はく製に加工し、欧州向けに大量輸出していた。
北西端の砂浜付近と思われる場所に、当時すでに小屋と石垣が建てられていた。写真手前の3艘は、日本本土式の和船で、左奥には沖縄式の小舟「サバニ」が見える。
左の南小島の場所を別角度から写したと思われるもの。道路を作っている様子。付近の石を運搬していたのか、沖縄で「バーキ」と呼ばれるカゴを抱える人が中央奥に写っている。大量輸出していた。
結局、アホウドリの羽毛採取事業は縮小し、古賀辰四郎は、セグロアジサシなど小型の海鳥のはく製づくりや、カツオの漁獲、カツオ節の製造などを始めました。カツオ節の製造は魚釣島で行われ、工場が建設され集落が形成されていました。1908年(明治41年)頃の写真には、その全景や働く人々の様子(調査で訪れた人も)が収められています。
この頃、カツオ節製造事業が軌道にのって開拓が進み、尖閣諸島各島に居住する人々は、99戸、総数248名を数えたと言います。
恒藤規隆(つねとうのりたか)をはじめとしたリン鉱資源調査の一行を迎えた際の集合写真と思われるもの。日の丸を中心に、写真右側には鉢巻きを締めたカツオ釣りの漁夫と思われる集団、集団後方の石垣にはカツオ釣りの長竿が立て掛けられている。左側に写る和服姿の婦人たちは、この時期カツオ節削りのため古賀が高知県より雇い入れたといわれる女工か。
カツオ節工場の後方の高台から撮影されたと思われるもの。小屋が海岸沿いに建ち並び、沖には蒸気船が写っている。この船は、当時尖閣諸島と沖縄本島間をたびたび運航していた広運株式会社の「球陽丸」と思われる。
カツオ節工場全景